昭和四十九年四月五日 朝の御理解
X御理解第五十八節
「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ」
二代金光様にある先生が、「御教えを書いてそれをきれいに表装して額に上げて、朝晩の自分の心の戒めにさせて頂いております」というような意味のことをお届けした時に、四神様がおっしゃっておられる。「あれは見るものではない。自分のものにして行くものだ。だから自分のものになったら、一つ一つ消して行くのじゃ」とおっしゃった。教えを麗々しく書いてそれを朝晩眺めておる。眺めているだけでそれを実行もしなかったり、自分のもの、いわゆる血に肉にならなかったら駄目だというのです。
私はこの二十何年間、教典を元に皆さんにお話を聞いて頂いておりますけれども、暗唱しているみ教えというものはいくつかしかないです。正確に。けれどもそれを私は見るたんびに思うのに、私はずうっと消していっておるなと自分で思うです。自分に血肉になってしまっておるなと思うです。だから、こうやって神ながらに開けさせて頂いただけで、自分のものに、言うならばある意味でなっているから、その自分のものを話せばよい、昨日あったことを話せばよい。それに勿論、神様にいろいろヒントを頂いたり、お知らせを頂いたりして聞いて頂く訳なんですけれどもね。
皆さんどうでしょうか。教えがもうやはりね、血に、肉になって行かなければ駄目です。こういうふうに教祖様が教えておられるからというて、そのことを言わば、見なければ思い出さないといったようなことでは、教えがやはりね、血に肉になって、いわゆる金光様の御信心ぶりというものが、もう、心身共に自分のものになって行くというおかげを頂かなければならない。
特にこの五十八節などの場合はそうです。例えば一番最後のところに、「神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ」とこうおっしゃっておられる。教えが血になり、肉になっておるなら、もう言うことすることが信心になっておるはずであります。まあ私共が過去の信心に於いて、おかげを受け切らなかったはずだなあと思うことはです。教えを例えば頂いても、読ませて頂いても、その教えを一つも守っていない。参ることだけはていげいに参った。拝むこともしっかり人に負けんごと拝んだ。けれども、行いそのものが信心のない者以下のような生活をして来ております。これはね、私が今日おかげを頂いとるから懺悔される訳ですけれども、なかなか自分がそうでない時には、なかなか懺悔されるもんじゃありません。もう自分が改まっとるから出来るのです。まあだ改まって悪いことばっかりしておる時には、そんなことは言えるものじゃない。けれども、改まっておかげを頂いて、最近では教えが血になり肉になっておるような感じですから、もう思うことも、することも、いわゆる行うことも、言わばお道の信心ぶりというものが生活の中にむしろにじみ出て来るようにおかげを頂いて行きよる。段々。
当時皆さんご承知のように商売人ですから、商売人が利益にかけた、儲かることのためならね、いうならどげなことでんして良かちゅうごたる考え方でしたですね、私は。成程、その、この神様はですね、大目に見て下さるというか、この神様は大きいと思うことはね、それでもやはりおかげは下さるです。おかげは下さるけれども残っとらんです。それが力になっとらん。徳になってないから、目先の例えば、算盤の上ではピシャッとこう儲かって行きよります。人が十銭で売らんならんとは十一銭に売りよる。まあ私は酒屋をしとりましたが、その時分焼酎が三十五度と四十度でした。売ってるのが。三十五度の焼酎をもう四十度で、もうそれこそこちらは玄人ですから、素人をごまかすことは平気なんです。もうどげなことでんしよった。なるほど飲んで見ちゃ、大坪さんところの焼酎は、言うならば、私は三十五度を四十度で売れれるようなふうに造ることは出来た。そういう、言うならば秘伝のようなものを知っておった。酒でも大坪さん方の酒は日が来んと、いわゆる腐れんと、腐れんはずじゃろ、腐れんごたる、ちゃんとまじないをしとるのです。それが今から考えてみると、もう本当にようあんなことが出来たもんだと思うくらいです。焼酎でもそうです。三十五度の焼酎を四十度でびんびん売っとる。そしてあそこんとは味のよか。だが商売は儲かりはするけれども、ぎりぎり決着残っていないということです。 だから如何にね、目先をごまかして儲かったから、その儲かる時点に於いてはおかげ頂いておる。その代わりに、人が十銭で売るのを十一銭やら十二銭で売りきるとが、よか商売人のごたるふうな思い方をしておる。そりゃまあ本当にえげつない商売してきたなあと思いますよ。そして時分の心の中に、自分で自分の心を許すためにというかね。良心的に苦しまんで、一つも苦しんできとらん。なぜかというとね、余分に儲かったとだけ御供えするという生き方じゃった。十銭のものを十一銭で売って、一銭御供えするのはいっちょに自分の身にはこたえとらん。十二銭で売って二銭だけ御供えする分は一つもこたえとらん。それで自分は信心しておかげを頂いておると思い、また、御用が出来ておると自分で思うとった。いかにもそれでおかげを頂き、ごまかし済ましておるように見えても。儲かりもしてきたけれども、ならその事実は一つも残っていないということです。残っておるのは借金ぐらいのことじゃったということなんです。だから商売が上手ということと儲かるとは別のごたるですね。商売はです、たいして上手じゃない、そんな利口でもないけれども、やっぱり残っておる人があるけれども。そりゃもう目から鼻に抜けるごと気の利いたよか商売人だと、自他共に許す程しの商売の腕を持ちながら実際は儲かっていないというのが、こう見渡して見ますとありますよ。
まだ私は本当にいろんなこと、まあ昔の酒屋はそうだったといやあそれまでですけれども、本当に「今度の酒はちっとは薄かったごたる」とか、「悪かった」とか言われる。「なら今度はちょっと念を入れて持ってきますとですから」と言うてから、一ちょうも念を入れて持って行っとらん。そのまま持って行っとる。「こんどは念を入れて来ました」「今度のは良かったごとあるばい」と。もうまるっきり神経戦ちゅうですか。もう神経です。ビールでも何でもそうです。アサヒがよかの、キリンがよかのと言うけれどもです。本当にレッテル剥いで飲ましたら分からん、誰も。いつか佐田さん所の宅祭の時でしたか、あの時に幾通りものビールが出たのです。キリンやらアサヒやらサッポロやら色々出ました。私が皆にね、「どれがサッポロか、どれがキリンか飲み分けて見れ」と私が言うのです。だあれも分かりゃせんじゃった。なら私にやって見なさいと言うて。私がこれがキリンばい、これがアサヒばい。もう私が言うた通りじゃった。というくらいのことはもう人並優れて稽古しとるから分かる。そういう意味ではごまかし方も実に上手にやってきたから、それだけ余計に儲かっとらんならんのだけれども、実際は残ってなかった。残ってるのは借金だったということになるんです。
人に泥棒じゃと言われてから、泥棒しとらねば腹かかんと。実際は自分自身泥棒と言われる時には実際泥棒をしとる。自分をね、一つ発見しなければいけない。今も申しますように十銭のものば十二銭で売って、余分に二銭儲かったのは御供えすれば、それで自分の心はもうごまかした気でおる。丁度鼠小僧次郎吉のごたる。幾ら盗ったっちゃね、庶民の難儀しとるところに配って回る。だからそういうのを義賊と言う。私の場合はもう義賊的な、いうなら義商だったじゃと思うですね。商人の面かぶっとるけども、言うなら泥棒も同じような、まあ言うなら詐欺の一歩手前のような商売を厳密な意味でして来とる。法にはかからん、ごまかしがうまいから。
私は思うのに「神がよく見ておる」とおっしゃる、ということ。だからこれは神様から見られても、人から見られてもです、成程信心しよんなさるから違うと、私はよく人から笑われても、神様から笑われることがあってはならないという。これは私が修行に入らせて頂いてから、その信条であった。人から笑うても神様から笑われてはならんという。
今日は私はそこんところをです。神様からは例えば笑われてもです、人間から笑われちゃならん。誰もその、言うならば、「あんた泥棒しよるね」とか「あんた悪いことをしよんなさること、薄々知っとったっちゃ誰も言やしませんです。そげなこと。自分は、だからごまかし得ているように思うとるです。けれども、「あの人はなかなか油断が出来んばい」というような雰囲気が、その人を中心にたくさん広がって来るです。「あれはもう、金銭のことはもう扱わされんばい」と、そういう雰囲気がです。そういう雰囲気をかもすような生き方というものは、私は許されないと思うです。いわゆる教えは頂きよるけれども、血にも肉にもなって行きよらんから、そういうことが平気で出来るのです。それでは、言うならば、徳にも力のもならんと。本当に教えに基づいての商売。それは目先は損のようでもあるし、そりゃ馬鹿げたように見えるけれども、それなら力を受ける、徳を受けるから、もう絶対繁盛のおかげを頂くことが出来る。これは商売に。ただ目先をごまかすために信心しよるというても良いような、言うならお商売だけのことじゃありませんけれども。そういう信心を、まあ身につけてしもうておるという、金光様の信者がどれだけ多いかわからん。そして御用する。どんなに貧乏人が喜んでも、鼠小僧次郎吉が結局は、張り付けに遭ったようなもんです。
信心をさして頂くなら本当に、盗人はしとらん、乞食はしとらん神様は見てござる。神様はご承知だからという時点をです。自分の算盤で、自分の考えで、良心に差し支えがなかったら、それを平気でやってのけるようなことでは、おかげにならん。教えが血にしみこんでない。言うなら、悪いことが悪いことに思うとらん。当たり前のごと、これは商売人だからこんくらいのことはというようなことになってしまっておったのが、私の過去の信心と同時にそれを信心生活だと思うておった間違いをです。皆さんは繰り返しなさってはならん。また、皆さんはそんなえげつないことをなさる方はないでしょうれども、厳密に言うてです。本当に教えが、いうならば神様がよく見てござる、ということと同時に人が見てもです。いうならば、真正面からは言わんけれども、陰で、「どうもあの人は油断がならんばい」と言われるようなです。あり方を、自分の生き方の中に持ってはならないということです。神様の信用を受けるというがお徳であるならばです。人の信用を受けるということが人徳です。神徳・人徳を兼ね備えて行かなければ、私は人間の本当の幸せはないと思う。
もう本当に一つですね。例えば、私は商売人ですからいつも商売の例をとりますけれども。確かに商売人はですね、もう厳密に言うと泥棒の一歩手前のことをばやっとりますよ。なるほど昔から、もう士農工商というて一番げってんのところに商人が置かれたはずだと思うです。えげつない、考え方が。今あの、大きな商社なんかの買いだめとか、あんなことで、もう考えてみると実に天地の気感にかなわんことを、平気でやっておる。商売人じゃから、それは当たり前のように思うておる。儲かりさえ、利潤になることならば、人が困るようなことなんかは全然眼中に置いてない。それこそ人が喜んで頂くことのための商売であってこそ、はじめて神様に喜んで頂くおかげが受けられるのです。
まあ、商売のことばかり申しましたけれど、商売はしとらんでも私共、生活の中にね、やはり教えを頂いとるけれども、教えが身にしみ込んでいない証拠にです。いわゆる真の道におりながら、真の道を踏んでいないことをです。一つ分からせてもらって。もう、こうせんならん、ああせんならんでなくて、本当にその教えが自分のものになりきっている、血肉になっておる程しのおかげをね、頂きたい。でないと、いわゆる本当のおかげにならん。
教祖の御教えを本当に行の上に現しての、たとえば日々であり、または商売であるならです。もう儲からんはずがない、利益の出らんはずがない。目先は損のようでもです。神様の御信用がつくから信用についてくるおかげですから、これはもう絶対です。利潤ということじゃない、神様の御信用が、そのままおかげになってくる。人の信用がそのままおかげになってくるという、おかげを頂きたいものですね。
どうぞ。